近代国家の産声を上げた明治初期の混乱期の我が国において、日本独自の力で1日も早い港湾等の測量を行い全国の海図作成に率先して心血を注ぎました。その功績から「水路測量の父」、「海の伊能忠敬」と称されています。
海軍軍人、和算家、数学者、測量学者、大日本水産会幹事長、政治家
柳楢悦は、津藩の小納戸役柳惣五郎の長男として江戸で生まれました。9歳で津藩の有造館に入門し、書や算術を学び、元服後、村田佐十郎の門下生になり関流数学の和算、測量術等を会得し、22歳の時には師村田佐十郎とともに六分儀を使用して津港の測量を行いました。1855年(安政2年)の時に江戸幕府が開設した長崎海軍伝習所に津藩からの留学生12名のひとりとして師とともに派遣され、西洋の数学を基礎とした近代的な航海術や海防に必要な測量術を学びました。同所では勝海舟をはじめ榎本武揚、川村純義、五代友厚など、後に明治政府で活躍する人達と一緒でした。
長崎から帰国後の1862年(文久2年)には幕府海軍の咸臨丸に従って伊勢、志摩、尾張の沿岸を測量しました。
その後、1869年(明治2年)新政府の海軍創設の基幹要員として参画するため上京し、兵部省の御用掛に出仕し、的矢・尾鷲、備讃瀬戸の塩飽諸島の測量を実施し、我が国初の水路測量原図といわれる「鹽飽諸島實測原圖」を作成しました。1872年(明治5年)には日本で初めての海図「陸中國釜石港之圖」を刊行するとともに1871年(明治4年)に実施した北海道沿岸測量で会得した沿岸水路調査による「春日記行」と測量の大綱「量地括要」を著わしました。
我が国初の水路誌「北海道水路誌」はこの「春日記行」を基に1873年(明治6年)に刊行されたものです。
水路業務に係る組織は、明治4年以降、水路局、水路寮、水路局を経て1886年(明治19年)に海軍水路部となり、柳は初代の水路局長・部長に就任し「水路事業の一切は徹頭徹尾外国人を使用しないで自力で外国の学術技芸を選択利用して改良進歩を期する」という自主独立の大方針を建てて水路業務を推進しました。また、海軍在籍中から日本の水産技術発展に尽力しました。
1888年(明治21年)、観象事業(気象・天文観測)問題から内務省や文部省と軋轢を生じ、退役しました。
退役後は元老院議員、貴族院議員になりましたが1891年(明治24年)に急性肺炎のため病没し、青山霊園に埋葬されています。(青山霊園墓碑の文字「海軍少将正三位勲二等柳楢悦墓」は勝海舟の筆によるものです)
親族には、以下の人物が名を連ねています。
- 三男
-柳宗悦(美術評論家) - 孫
-柳宗理(デザイナー)
-柳宗玄(美術史家)
-柳宗民(園芸評論家)
- 1832年(天保3年)10月8日津藩の小納戸役・柳惣五郎の長男として江戸で出生
- 1841年(天保12年)津藩校有造館に入り、句読、書法、礼節、算術を学ぶ
- 1846年(天保17年)元服後、村田佐十郎門下生となり、関流数学、量地術(測量術)を会得
- 1853年(嘉永6年)天測用六分儀を使って津港の測量を実施。和算数学書を執筆
- 1855年(安政2年)長崎海軍伝習所1期生となる
- 1861年(文久元年)オランダ航海学書を翻案し、「航海或問起源」を著わし、津藩航海術指南役になる
- 1862年(文久2年)幕府が実施した伊勢・志摩、尾張沿岸の測量に津藩から参加
- 1869年12月(明治2年)兵部省御用掛に出仕し、水路測量を担当
- 1870年6月(明治3年)測量主任として、第一丁卯丸に乗船し、的矢・尾鷲の測量に従事
- 1871年1月(明治4年)備讃瀬戸の測量結果を我が国初の測量原図「鹽飽諸島實測原圖」として完成
- 4月 海軍少佐になり、春日艦長として、北海道、東北の測量を実施
- 10月 水路監督長官となる。12月に中佐に昇任
- 1872年9月(明治5年)我が国初の海図「陸中國釜石港之圖」を刊行
- 1873年3月(明治6年)北海道測量時の収集情報で記された春日記行を基に我が国初の水路誌「北海道水路誌」を刊行
- 1876年8月(明治9年)水路局長に就任
- 1877年 (明治10年)日本初の学会「東京数学会社」(現在の日本数学会及び日本物理学会の前身)を設立
- 1878年2月(明治11年)各国水路部及び観象事業(気象・天文観測)の実情視察のために欧米視察
- 1880年8月(明治13年)海軍少将に昇進
- 1888年3月(明治21年)海軍水路部長を退任
- 1888年4月(明治21年)大日本水産会幹事長に就任
- 1890年 (明治23年)貴族院議員に勅撰された。
- 1891年1月(明治24年)肺炎のため没。青山霊園に埋葬