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海の豆知識
寄せられた質問の中で特に多いものについてまとめました。
●海の深さ
●中部日本海の知識
●潮の干満(潮汐)
●流れ(潮流、海流など)
●海岸の話題
●波
●船の話題
●海・その他
海の深さ
「世界で一番深い海」
フィリピンの東方数千キロ沖にあるマリアナ海溝の中にある、チャレンジャー海淵(かいえん)というところが世界で一番深い海です。 海上保安庁海洋情報部の測量船「拓洋」(たくよう)が測った資料などを基に、チャレンジャー海淵の一番深いところを10,920mとしました。
ちなみに、海の深さは音波を使って測っています。
「海の深さを測る基準面」
海の深さ(水深)は、最低水面(Datum Level)から測ります。この最低水面は、一般に平均水面下 Hm+Hs+H'+Ho の面です。
Hm,Hs,H',Hoとは、それぞれ潮汐の調和分解で求めた「Hm:主太陰半日周潮」、「Hs:主太陽半日周潮」、「H':日月合成日周潮」、 「Ho:主太陰日周潮」の各半潮差を示します。
しかし、場所と時期により(冬季に高気圧の影響など)、低潮面はこの最低水面よりも下がることがあります。
中部日本海の知識
「日本海の海底地形の特徴」
日本海の海底地形は、中央に大和堆・北大和堆があり、中北部の日本海盆、 南西部の対馬海盆及び南東部の大和海盆を分けています。
「日本海の海流の特徴」
日本海に流れ込んだ対馬暖流は一般的には本州沿岸(第一分枝)、沖合(第二分枝)及び朝鮮暖流系(第三分枝)の三分枝に流れている説と、 一本の流れが蛇行しながら流れるという蛇行説がありますが、現在のところ定説はありません。
「大和海嶺」
日本海は水深がおよそ3,000メートル、海底の地形は平らな盆地状になっていますが、そのほぼ中央部に大和海嶺と呼ばれる、 海底からの高さが2,000メートル以上にもなる山脈があります。この海嶺は九州ほどの大きさがあり、大きく分けると二つの部分に分かれています。 一つは大和堆で最も浅い部分が水深236メートル、そしてその北西側に水深397メートルの北大和堆があります。 両方の堆の大きさはいずれも、幅数10キロメートル、長さ200キロメートル位で南西から北東方向に細長くつらなっています。
大和堆は水産講習所の天鴎丸が初めて発見したのですが、その後1926年に軍艦大和が再度精密な測量をしたことから大和堆と命名されました。 もう一方の北大和堆の方は海洋気象台の春風丸が1930年に発見し春風堆と命名されましたが、 同じく軍艦大和によって1年後に再び測量されて北大和堆と改名されました。
この堆付近の海流は海底地形の影響を受けて複雑で、蛇行したり渦状の流れができています。 これによりプランクトンなどが豊富にあり、日本海有数の漁場となっています。
「中部日本海の主な湾」
富山湾:
能登半島東岸に位置し、日本海最大の外洋生内湾で、海上保安庁発行の水路書誌第102号「本州北西岸水路誌」によれば 湾口を石川県の大泊鼻と富山県の生地鼻を結んだ線とする湾口幅約32km、面積653kuです。
飯田湾:
能登半島東端の長手埼とその南西方約13kmの赤埼との間にある開湾で、北西方へ約5.5km湾入しています。
七尾湾:
能登半島東岸の中部に位置し、七尾北湾口である大口(火打埼〜祖母ヶ浦埼)と七尾南湾口である小口(松鼻〜観音埼)で外洋に通じ、 湾内中央に横たわる能登島により、北・南・西の3湾に分かれています。
真野湾:
真野湾は佐渡島真野町南西方の田切須崎とその北北西方対岸の台ヶ鼻を湾口として西方に開口しています。湾口の幅約6.5kmで北東方へ約7.4km湾入します。
両津湾:
両津湾は佐渡島弾埼の南方約18.5kmの和木岬とその南東方の姫埼を湾口として、北東方へ露開する。湾口の幅約12kmで、湾入約8kmです。
「中部日本海の海峡」
佐渡海峡:
佐渡海峡は佐渡島の沢崎鼻と対岸の米山埼を結ぶ線並びに佐渡島の姫埼と信濃川河口左岸とを結んだ線で囲まれる海域です。越佐海峡とも呼ばれています。
「中部日本海の主な島」
佐渡島:
新潟県佐渡市に属する我が国第二の面積を有する島です。島の大きさは南北の長さ約65km、最大幅約35km、 面積約857.2ku、人口約70,500人の1島・1市(佐渡市)になり、島内には重要港湾である両津港、小木港等があります。
粟島:
新潟県岩船郡に属し、岩船港の北北西約33kmにあり、長さ約7km、幅約2km、面積約9.2kuです。 全島粟島浦村の一村で人口約470名で、島の東岸内浦に粟島漁港、西岸釜谷に釜谷漁港があります。
舳倉島:
石川県輪島市に属し、市の北方約50kmにある小島で北東〜南西方向に長く、標高約12.5m、長さ約1.5km、 幅約600m、面積約1.03kuです。島の南東中部に舳倉島漁港があります。
能登島:
石川県七尾市に属し、能登半島東岸の七尾湾に浮かぶ島で東西約13km、南北約6.5km、面積約47.5kuです。
潮の干満(潮汐)
「潮汐(潮の満ち引き)」
潮の満ち引きによる海水面の変化を潮汐(ちょうせき)といいます。
潮汐は天体と地球の間に働く引力と遠心力との差によって起こります。特に月の影響を大きく受けます。
天体に面した海面は天体の引力により海水面が盛り上がり、反対側の海面は引力よりも地球と天体との公転 による遠心力が強いので、海水面は同じように盛り上がり、どちらも満潮(まんちょう)になります。
満月や新月(しんげつ) の時には、月と地球と太陽(新月の時は地球と月と太陽)が直線的に並び、月と太陽の引力が重なるので、 海面の変化が大きくなります。これが大潮(おおしお)です。
上弦(じょうげん)や下弦(かげん)の半月の時には、地球から見て月と太陽は直角の方向にあり、 月と太陽の引力が邪魔をしあって海面の変化は小さくなります。これが小潮(こしお)です。
「世界一干満差の大きい所」
カナダ東岸のファンデー湾では、大潮の時の干満の差の平均は13.6メートルにもなります。 逆に、地中海や日本海では、数10センチメートルしか変化がありません。
なお、日本で一番干満差の大きい所は、島原湾の住ノ江(佐賀県)で、大潮の干満の差の平均は5.4mメートルです。 また、新潟港の大潮の時の干満の差の平均は約34センチメートルです。
「潮汐と旧暦」
旧暦は、月の動きを基準にして作られた暦(こよみ)です。月の動きは潮の干満に大きく影響します。
旧暦と潮汐の関係は数日のずれと幅がありますが、旧暦の暦では、1日と15日前後は大潮、8日と 22日前後は小潮です。旧暦の暦があれば、潮汐の大体の変化がわかります。
「長潮と若潮」
長潮は小潮の終わり頃の干潮・満潮の変化がゆるやかでだらだらと長く続くように見えること からこのように呼んでいます。
若潮は、長潮を境に大潮に向かって、干潮・満潮の差が次第に大きくなってくることから、 潮が若返るということで、長潮の翌日を若潮と呼んでいます。
流れ(潮流、海流など)
「海流」
広い海をつねに一定方向に流れる大きな流れを海流といいます。
海に海流が存在することは古くから流木などの漂流物によって知られていました。
海流には表層の流れと深層の流れがあります。
表層の海流のエネルギーの90%は、それぞれの地方や地域で特定の季節に頻繁に現れる風から供給されています。
例えば南・北赤道海流には貿易風が、北太平洋海流や北大西洋海流には偏西風の力が作用しており、その流路や流速にある程度の季節的変化 や一時的な変化はあるものの、海流の運動が大きく変わることはありません。
風が海水の運動を引き起こすところから、これを吹送流(すいそうりゅう)と呼びます。
海流をつくる原因としては、ほかにもいくつかのエネルギーが考えられます。現実に流れている海流は、いろいろなエネルギーの組合せでつくられています。
海流は恒常的な海の流れです。
黒潮は日本列島の南岸に沿って、南西から東北に向かって流れる強い海流です。カツオやマグロなど暖水性の魚が日本南海から東北 海域まで生息しているのは、この黒潮のおかげです。
「日本海の海流(対馬暖流)の特徴」へ
「潮流」
潮汐に伴う海水の周期的な流れを潮流といいます。 潮流は大洋の中では微弱ですが、湾口・水道などでは強いことが多いです。
潮流の流向は風向を表すのとは逆で、流れていく方向で表します。
広い海の潮流は流向・流速ともに 刻々変化し、周期的にもとに帰るのが普通ですが、水道などでは直線的で、普通一方向に最強となり、 次第に流速を減じついに流れが停止します。 この状態を憩流(Slack water)といいいます。転流ともいいます。 次いで逆の方向に流れ始め、流速を増して最強流に達した後、流速を減少して再び憩流となり、これを周期的に繰り返します。
上げ潮中に流速が最強となる方向の潮流を上げ潮流といい、下げ潮中に流速が最強となる方向の潮流を 下げ潮流といいいます。
「離岸流」
岸から沖合への海水の流れを離岸流(リップカレント)といいます。
波の運動で沖合から岸に運ばれた海水は行き場を失い、岸と平行に流れた後、ある特定の場所で急に沖合に向かって流れ始めます。
ところが、この流れの中にいることに気づかずに、懸命に陸に向かって泳ごうとし体力を消耗して、しばしば痛ましい水の事故の原因となっています。
岸に向かって泳いでもなかなか近づかないで沖合に流される場合は、離岸流の中にいるかもしれません。こんな時には、海岸と平行に泳いでみてください。 離岸流の幅は狭いため、この流れから逃れることができるでしょう。
全国の沿岸海域で離岸流は確認されています。 事故に遭わないためにも、マリンレジャーを楽しむ前に、地元の海浜管理者等の詳しい人に事前に確認してください。
離岸流についての詳しい解説は
こちら
海岸の話題
「海と陸の境はどこか」
家の敷地と家の敷地の間には境があり、市町村同士の境、県の境、また国と国の境、すなわち国境ですが、このように様々な境界があります。 それでは海と陸の境はどこになるのでしょう。
この境のことを「海岸線」と言いますが、海岸線を決めるのは何なのでしょう。
海岸は常に波があり、潮が満ちたり干いたりしてますから、水のあるところと陸との境界は絶えず変わります。
そこで日本の海図では、海岸線を海面が満潮の「最高水面(さいこうすいめん)」の時の海と陸の境目にしています。 最高水面というのは、その場所の年間を通しての満潮を観察して、もうこれ以上には海水が上がって来ないであろうと考えられる海面のことです。
一方、国にとって重要な領域を決める基準となる線は、満潮とは反対の干潮(低潮)の時、即ち、もうこれ以上には海水が干かないと考えられる海面、 「最低水面(さいていすいめん)」が領海を決める基準となるのです。
これを「低潮線」または「干出線」と言っています。
この低潮線と海岸線との間には、満潮の時には海になり、低潮の時は陸になる干出部があることになり、領海を決める基準線は、通常は海の中にあることになります。
このような大切な基準を決める潮の満ち干きの観測のため、日本全国の海岸に験潮所が設置されています。
新潟県の粟島には、第九管区海上保安本部が管理する験潮所があり毎日観測を続けています。
「海岸線は動いている」
海岸線は陸地と海面の交わる線を言います。しかし、海面は、潮の満ち干きや波の状態で変化し、 気圧の変化などによっても変わりますが、ここではごく一般的な海岸である、海辺についてのお話です。
海岸は、波の力や川からの流れ出す土砂、地盤の変動などのほか、いろいろな原因で絶え間なく変化します。
地盤の盛り上がりを地殻(ちかく)の隆起といいますが、昭和39年の新潟地震のときは、 粟島(あわしま)では1メートル以上も隆起がありました。 また、大正12年9月の関東大震災では三浦半島や房総半島で2メートルもの隆起がありました。
土砂の移動のために海岸線が変わってしまう例では、新潟港付近の海岸浸食があります。
昭和2年に新潟市の西方の、大河津から寺泊に向けて信濃川の分水路ができて、 上流からの土砂が運ばれてこなくなり、ますます海岸の浸食が激しくなったのです。
このように海岸線は、ときには盛り上がったり、崩されたりしてたえず変化しています。
自然の状態に人工の手が加わって、それまでの海岸線が今までのバランスを失い、新たな問題を引き起こすことがあります。
新潟市の西海岸には、沖合に多数の消波ブロックという波の浸食を防ぐブロックが積み上げられています。
これ以上に海岸が、波によって崩されないよう、新潟の海岸が動かないよう守っているのです。
「海岸の洞穴」
波の浸食によってできた海岸の洞穴(ほらあな)を見たことがありますか。
新潟県の海岸の総延長は585キロメートルあり、一般には女性的で優しい海岸ですが、 角田山が海に迫る越後七浦海岸、瀬波の笹川流れ、佐渡島の外海府などの海岸では、海に向かって大きく口を開けた大小の洞穴を見ることができます。
なかでも、北アルプスが日本海になだれ込む富山県境に近い青海(おうみ)と市振(いちぶり)の間の約15キロの海岸は、 断崖が波打ち際までせまり、親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)の難所でした。 ここには長い年月の間に、荒波によって造られたいくつかの洞穴があります。 「大フトコロ」「小フトコロ」「大穴」「小穴」と呼ばれるこれらの洞穴は、昔、ここを通行する旅人にとっては、無くてはならない天然の避難場所でした。
海が荒れたときの大波は、容赦なく旅人の通る海岸を襲います。
先を急ぐ人は洞穴に身を隠しては波を避け、波のおさまるのを待っては、ここを通過したのです。
親不知・子不知の地名の由来は、この難所を通過するとき荒波に子供をさらわれたある貴人の妻が、その悲しみを
「親知らず 子はこの浦の波枕 越後の磯の 泡と消えゆく」
と詠んだ和歌から出ているのだそうです。
今では、この難所も北陸高速道が通り、あっと言う間に通過してしまいます。
「浜と磯の違い」
新潟市内の海岸には、日和山浜(ひよりやまはま)、関屋浜、小針浜(こばりはま)などの浜があり、市民にとって楽しい憩いの場となっています。
では、この「浜」という言葉にはどんな意味があるのでしょう。辞典では、「浜」は海や湖に沿った水際の平らな所と言っています。 しかし、これではどこからどこまでを指すのかはっきりしません。
海岸の場合詳しく言うと、海水が干いたときの水際から、暴風のときなどに海水が押し寄せてくる所までが浜なのです。 海岸の傾斜が緩やかであればあるほど、波の打ち寄せる距離は長くなりますから浜は広くなります。 千葉県の九十九里浜(くじゅうくりはま)は、遠浅で海岸の傾斜が緩やかなので、日本海側の浜の何倍もの広さがあります。
それでは、海岸でする釣りのことを「磯釣り」といいますが、この「磯」とはどんなものなんでしょうか。 辞典では、海や湖の水際で石の多い所となっています。そうしますと、磯はワカメやサザエ、アワビなどが採れたり、 磯釣りが楽しめる、岩や石のある海岸ということになります。 一方、浜は潮干狩りや地引き網のできるような海岸と言えそうです。
海岸の地形は、大きく分けると「浜」と「磯」の二つに分けられます。 しかし、最近は海岸が埋め立てられて波がザザーと寄せては返す浜辺が、少なくなってきました。
浜辺にいる「ちどり」を「浜ちどり」といい、磯辺にいれば「磯ちどり」といいますが、これが埋立て地になると「何ちどり」になるのでしょうね。
「鳴き砂」
海岸の砂浜を歩くと、キュッキュッと音のする所が、全国に何か所かあります。 この音を出す砂のことを「鳴き砂」、「鳴り砂」と言い、その砂浜を「鳴き浜」と言っています。
新潟県巻町の角田浜に近い「角海浜(かくみはま)」では、昔の鳴き砂の音を聞くことができたそうですが、残念ながら今では聞くことができません。
この砂の音は、乾燥した砂粒の直径が0.25ミリから0.5ミリで、丸みのある石英質の砂粒が、こすれあって出すのです。
このような砂が出来る条件として、綺麗な海水があって、長い間、砂浜を洗い続けることと、激しい波の作用が必要であると言われています。
海水や砂浜が汚れると、粒の揃った砂があっても、鳴き砂の音は出ません。お茶碗一杯の鳴き砂の中にチョークの粉を、耳かき一杯入れただけでも音は出なくなるそうです。
自然の状態で、鳴き砂を元のように復活させるには、百年も二百年もかかると言われています。日本には数十か所もあったと言われていた鳴き浜も、今では大変少なくなっています。
「鳴き砂」や「鳴り砂」のことを、英語では「ミュージカルサンド」と言いますが、島根県にある「琴ヶ浜(ことがはま)」、丹後半島の「琴引浜(ことびきはま)」の名称から何となく、その雰囲気が感じられます。 東北地方では、ずばり音を表現して、気仙沼湾付近の九九鳴き浜(くくなきはま)や牡鹿町の十八成浜(くぐなりはま)の名称で呼んでいます。
波
「津波の伝わる速さ」
津波の伝わる速さは、海の深さの平方根に比例します。
水深6千メートルの太平洋では、秒速200メートル以上、時速に直すと、700キロメートルにもなります。
昭和35年のチリ地震の時には地震発生後、24時間で津波が日本に押し寄せました。チリから日本までの距離は 1万7千キロメートルですから、平均時速は700キロメートルでした。
「波はなぜ起きる」
波は外洋で強い風によって生まれます。
風によるうねりが移動してきて、岸に近づくと海底が浅くなるので、波の高さは大きくなります。
夏の終わりの土用波は、遠くの台風からのうねりです。
船の話題
「北前船」
冬の間中荒れ狂う日本海も、春から秋にかけては静かです。 特に夏は鏡のような海面になります。北原白秋の「砂山」は、「海は荒海向こうは佐渡よ・・・・・」の歌詞で、一年中日本海は荒れているような印象を与えそうです。
荒れるのは季節風の吹く冬の期間だけで、むしろ年間を通じて見ると太平洋側の方が荒れている日数が多いのです。 この穏やかな海を利用して開かれたのが、日本海の北前航路です。
その航路の主役を務めたのが「北前船」で、当時では比較的大型の帆船でした。
この船は江戸時代の終わり頃から明治20年代にかけて、日本海沿岸各地の産物と京都・大阪地方の産物の交易におおいに活躍しました。 江戸時代に活躍した北前船を小木町は、当時の設計図を基に2年をかけて日本で初めて完全に復元しました。
船の名は「白山丸」(約73トン)で、高さ約22メートルの帆柱に160畳の帆を張るそうです。
「船位通報制度」
日本列島の周辺海域には、国内外の貨物船や漁船など数多くの船が行き来しています。 そしてこれら船舶の海難事故もまた、毎年数多く発生し、尊い人命や貴重な財産が失われています。
そのため、昔から船乗りの間では、シーマンシップといって、洋上での海難や火災などの事故が発生した時は、近くにいる船が救助に向かい、 お互いを助け合う精神が受け継がれてきました。しかし、海難事故を起こした船の位置や、消息を断ってしまった船舶を探すことは容易ではありません。
そこで海上保安庁では、不幸にして海難が発生した場合、効果的な捜索救助活動を行うため、航海している船舶の動静を把握する船位通報制度、 その英語名の頭文字をとってジャスレップというものを昭和60年から開始しました。 ジャスレップとは船の航海計画と、毎日の位置を海上保安庁に通報してもらう制度で、これにより安全に航海をしていることが確認でき、また、万が一海難事故などが発生した場合にも、 その付近を航行している船舶に無線で救助要請を行うことができます。
「GMDSS」
今から約160年前にモールスが電信機を考案し、平成10年は映画でも話題を呼んだタイタニック号の海難事故で、 初めてモールス無線電信によるS0Sが発射され、これを受信したカルパチア号が救助にかけつけました。 この事故がきっかけとなって、船舶への無線電信機の設置が義務づけられました。
以来、モールス無線通信は、世界共通の通信手段として活用されてきましたが、近年、衛星通信やディジタル通信などの新技術が発展してきたことから、 平成4年から、海上における遭難安全に関する世界的な制度(GMDSS)がモールス無線通信と平行して運用されてきました。 このGMDSSの方式は、広範囲な遭難、安全通信を確実に行うシステムで、これによりいつでも、どこからでも、 自動的に簡単な機器の操作で、遭難警報の通信ができることになります。
平成11年2月からGMDSSへ全面的に移行され、これまで使われてきたモールス無線信号による通信は取り扱わなくなりました。
海・その他
「海水はなぜ塩辛い」
海水には、食塩のもとであるナトリウムイオンや塩素イオンなどの 天然にある元素が溶け込んでいて、これが塩辛さの原因になっています。
地球が誕生した約45億年前の地球では、 地球内部から吹き出した多量のガスの中に、 水素や水蒸気、塩素が含まれていました。
地球の温度が下がりだすと、水蒸 気は水となり雨となって地上に降りそそぎ、海となりました。
塩素ガスは水にとけやすいため、海にとけこみ塩酸の海となりましましたが、長い年月の間、 海中の岩石を溶かして酸性から中性に変化して現在のような海になりました。
塩辛さのもとは、大昔の塩酸の海が岩石を溶かし、 その成分と塩素が結びついて塩辛くなったと言われています。
「民謡佐渡おけさのルーツ」
新潟県の代表的民謡といえば、「佐渡おけさ」とだれも答えるほど有名な民謡です。
しかし、「佐渡おけさ」は佐渡島で生まれ、唄われてきたと思われているのではないでしょうか?
でも違いました。「おけさ」のルーツは、はるか遠い九州の熊本県牛深(うしぶか)という港で唄われた「牛深ハイヤ節」だといわれています。
では、ラジオやテレビなどの無い時代に、どのようにして北の佐渡島へ伝わってきたのでしょうか。
江戸時代の終わり頃、日本海では北海道がまだ「えぞ」と呼ばれていた江差地方と、大阪・京都の間に航路が開かれ、 たくさんの船が行き来し、様々な物資の流通を行っていました。
その航路の主役を務めたのが「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれた帆船です。
ですから、荷を運ぶ途中、風の向きや海流の具合が悪いと、船を走らせることができず、何日も港に泊まらなくてはなりませんでした。
そのような時、船の船頭たちは陸に上がって、その土地の人たちに唄を教えたり、披露しあったりして、その土地独特の節回しに編曲されて、 いくつもの民謡が生まれました。
「ハイヤ節」が越後の国で最初に伝わったのは、出雲崎、寺泊、そして佐渡の小木だろうといわれています。
特に小木港は相川の金山に近く、徳川幕府の港として大変に賑わいましたから、北前船が多数出入りしました。
京都や大阪の文化の影響を強く受けた佐渡の民謡は、優雅な節回しが多いようです。 このように日本海を行き来した北前船は、物資だけでなく諸国の文化や芸能までも一緒に運んでいたのです。
「海水温度と生存時間」
12月の新潟付近では、クロダイやアジおよびイナダなどが釣れているようで、磯や防波堤での釣りが人気を呼んでいます。 しかし、冬の日本海は低気圧の通過などによって大荒となり、大波が防波堤などに打ち寄せ、海中転落など思わぬ事故になることがあります。
海水に落ちた場合、その生存にもっとも大きな影響を与えるのが海水温度による体温低下です。 人間の体は体温を約37度に保つように調整されていて、35度以下になると正常な機能が保てなくなります。 一般にいわれているのは海水温度が21度以上の場合には80時間以上生存した事例もあって、いかに浮かんでいるかにかかっていますが、 15度から20度では12時間、10度から15度は6時間以内に救助すれば助かる可能性があるといわれています。 さらに水温が5度から10度になると1時間以内に救助しても確率は50パーセントとなります。
この時期の釣りは天候も良く海も穏やかな日があっても、安全には特に注意を払い、動きづらくとも救命胴衣を付けてレジャーを楽しんで下さい。 事故や不審なものを目撃した時は、第九管区海上保安本部(118番)へ連絡して下さい。
「海からの贈り物」
冬を迎え季節風が吹き出すと日本海は時化(しけ)が続き、穏やかな海の日は夏に比べるとわずか10分の1程度にへってしまいます。
海の荒れた日が続いた海岸には、いろいろな物が打ち上げられているのが見られます。日本海ではまれにしか見られない、 熱帯性の魚のハリセンボンやネズミフグあるいは亜熱帯の植物のグンバイヒルガオやココヤシなどが流れ着いたという報告がされています。
これらの熱帯性の魚や植物は、夏から秋にかけて対馬暖流が最も強く流入する時期に、遠く南方から海流によって運ばれ、 それが風によって浜辺に打ち上げられたものなのです。
対馬暖流は南の国から珍しい贈り物を運ぶ一方、日本海沿岸にもう一つ贈り物を運んできます。それは多量の雪です。 シベリアあたりから吹き込む冷たい季節風が日本海を渡るとき、海面から立ち昇る大量の水蒸気を取り込み、 それが日本列島の山々にあたって雪を降らせるのです。
「灯台のお引っ越し」
灯台は、半島など岬の先端や、港の防波堤の先端など船から光が良く見える所に建てられ、航海の安全を見守っています。
高い山の上や離れ島などに灯台を建てるときは一度造ると移動できないため、その場所の気候や海の状態、 周囲の環境などを調べて灯台の形や造る材質などを決めます。
ところが、延長工事で沖へ沖へと延びていく防波堤の場合、最初は防波堤の先端にあった灯台も防波堤の真ん中になったり、 根元近くに取り残されてしまい航路標識としての役割が果たせなくなります。 また、延長される度に灯台を壊し、造り直していたのでは膨大な建設費用がかかってしまいます。
そこで、前もって延長工事のあることが予測できる場所の灯台は、簡単に引っ越しができるような方法で建て、 移動のたびに防波堤と灯台の連結部分を取り外し、吊り上げて次の場所へ持って行くのです。
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