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旧暦のあれこれ

旧暦ってなに?

今でも、「今日から旧暦の**月」といった表現を耳にすることがありますが、この旧暦って何でしょうか?
現在私たちが使用している太陽暦(グレゴリオ暦)が日本で正式に使用されるようになったのは 明治6年1月1日から。
これはいわゆる新暦というもので、これに対してそれ以前に使用されていた太陰太陽暦(天保壬寅暦)を 一般に旧暦と呼ぶものと考えられます。
太陰暦とは、月の満ち欠けが暦のベースとなっており、原則として、朔(新月)となる日をその月の一日(ついたち)として日付を数えます。 ですから、三日月は3日、満月は15日(十五夜)といった具合に、日付と月の満ち欠けに対する呼び名が一致します。
ただし、現在「旧暦」と呼んでいる暦は、日付の数え方や置閏法(閏月の置き方)が 天保暦を模倣しているというだけで、その元となる天体の運動理論や時刻の取り方などは現在の暦を流用したもので、 あくまで「天保暦のようなもの」といったところでしょうか。

閏月

明治の初めまで使用されていた暦は、月の満ち欠けを基準として1月の長さを決めていました。 月の満ち欠けの周期は、多少変化しますが、平均して凡そ29.5日。 このため当時の月の長さは、小の月が29日、大の月が30日で、小の月と大の月がほぼ交互にやってきます。
現在は(2月をのぞくと)小の月が30日、大の月が31日ですから、同じ12ヶ月では、現在の暦と旧暦では長さが違います。 12ヶ月で1年とすると、旧暦の暦法ではおよそ、354日となり、実際の1年より11日ほど短くなってしまいます。 このままでは、何年かが経過すると、暦の月と季節が全く合わなくなって、日常の生活にも不都合なことが生じてしまいます。
このため約3年に1度、「閏月」を作り、1年13ヶ月となる年を設けました。 これによって、暦と季節の関係を調整したわけです。
今は、閏年というと2月が29日まであり、1年が366日となる年のことですが、旧暦では閏月の入る年を閏年といいました。 閏月の入らない普通の年(平年)は1年が353日~355日、閏年は384~385日になりました。 閏月は、原則として二十四節気の「中」を含まない月とし、 その前の月と同じ月名に「閏」とつけて呼びました。例えば「閏五月」というようになります。 このような、「閏」の挿入の規則のことを「置閏法」といいます。
現在使用されている太陽暦の場合、閏月はありませんが、閏日が入ることがあり、 この規則も「置閏法」と呼ばれます。

閏月の例

天保暦の置閏法に従って計算すると、1998年(平成10年)には、閏月が入ることになりますので、閏月の一例として紹介します。
なお、この説明中の用語について、閏月二十四節気にその意味が説明されていますので、 そちらの説明を先にお読み下さい。
1998年の閏月の例
1998年の6~8月の月の朔(旧暦の一日となる日)と二十四節気の中の月日を抜き出すと次の表の様になります。
新暦月日旧暦月日朔、二十四節気
05/2605/01朔(新月)
06/2105/27夏至(五月中)
06/24/01朔(新月)
07/2306/01朔(新月)
07/2306/01大暑(六月中)
08/2207/01朔(新月)

上の表で新暦05/26の朔と次の06/24の朔の間には夏至(五月中)が1つありますので、この月は旧暦五月となります。 新暦07/23の朔と08/22の朔の期間にも大暑(六月中)があるので、この月は旧暦六月となります。
しかし、この間の新暦06/24の朔と07/23の朔の間にはが無いために旧暦の月名が定まらないため、 この月が閏月(閏五月)となります。

二十四節気

旧暦は、閏月のを入れることによって暦と実際の季節の関係を調整したと述べましたが、 それにしても、閏年の前と後では、同じ月日でも30日近く季節が異なってしまいます。 これでは暦を元にして農業などを行うわけにはいかなくなってしまいます。
そのため、暦の中に季節を表すものを入れて、この不都合を防ごうとしました。これが二十四節気です。
二十四節気は、立春、雨水、啓蟄、春分・・夏至・・秋分・・冬至・・大寒と、全部で24あります。 二十四節気は、太陽が一年で一回りする道筋(黄道)を24等分(太陽黄経の15度毎)し、 太陽がこの点を通過する日時によって決まります(定気法)。
このため、二十四節気が暦に記されていれば、そこから季節を知ることが出来ます。

注意
二十四節気の求め方には、1年を単純に24等分して求める恒気法もあります。

下の表は、季節毎に二十四節気を分けたもので、それぞれ節、中の別及び太陽黄経(単位は度)を与えたものです。
二十四節気の名称等
立春正月節315
雨水正月中330
啓蟄二月節345
春分二月中0
清明三月節15
穀雨三月中30
立夏四月節45
小満四月中60
芒種五月節75
夏至五月中90
小暑六月節105
大暑六月中120
立秋七月節135
処暑七月中150
白露八月節165
秋分八月中180
寒露九月節195
霜降九月中210
立冬十月節225
小雪十月中240
大雪十一月節255
冬至十一月中270
小寒十二月節285
大寒十二月中300

上の表のとおり、二十四節気には「節」と「中」の区別があり、節と中が交互に並びます。 「節」は季節を表し、「中」月名を決めます。
表によれば雨水は「正月中」となっていますので雨水を含む月が「正月」となり、原則的には以下同様にして月名を決めることが出来ます。

ただし、恒気による二十四節気では、中と次の中までの間隔は1月の長さを決める月の朔望周期(満ち欠けの周期)より長いため、 「中」を含まない月が出来ることがあります。このように、「中」を含まない月を「閏月」といいます。
更に、二十四節気を定気によって定める場合は、中と中の間隔が一定でなくなり、 1月よりも長くなる場合と短くなる場合の両方があります。
このような場合は「中」によって月名が決まるといった原則が崩れてしまいます(1月に2つの「中」が入ることもあるため)。
このため定気の場合は
  「冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月にする
という一条を加えて、これに反しない範囲で適当な月に閏月を配置します。 現在言うところの「旧暦」は、明治の始めまで用いられた天保暦をもとにしたものでしょうから、 閏月を計算だけから一意に決めることは出来ません。

旧暦は月日は月の満ち欠け(太陰)から決め、季節は太陽から決める方式をとった「太陰太陽暦」の一種なのです。 現在でも、二十四節気は、季節を示すために用いられることがありますね。

明治の改暦

現在の暦が使用されるようになったのは明治6年1月1日から。 この日はそれまで使用されていた天保暦では、明治5年12月3日に当たります。 ですから、明治5年の12月は1日と2日の2日間しかありませんでした。
この改暦が正式に決定されたのは、明治5年11月9日のこと。「太政官布告(第337号)」という法律によってです。 法律の公布から、実際の改暦までの期間が1ヶ月もないという慌ただしさです。 年末ですので、既に翌年の暦は印刷されていましたが、この法律によって既に印刷されていた暦は、紙屑になってしまいました。
明治の改暦は突然で、十分な検討もされないまま施行されましたので、多くの誤りや問題点をのこしていました。 そこまでして明治新政府が改暦を行った理由には、深刻な財政問題があったといわれています。 というのは、従来の暦では翌明治6年は閏年で、閏月が入るため1年が13ヶ月あることになっていました。 既に役人の給与を年棒制から月給制に改めた後なので、明治6年には13回、給与を支払わなければなりません。 これは、財政難であった明治新政府にとって悩みの種でした。
その上、太陽暦に切り替えることによって、明治5年の12月は2日しかありませんので、 この月の月給は支払わないこととすれば、明治5年分の給与も1月分減らせる、正に一石二鳥の改暦だったわけです。