我が国は、海に囲まれているにもかかわらず、海のみちしるべである近代的な海図作成の歴史が始まったのは明治に入ってからです。
ここでは、海図が生まれた背景を解説します。
1635年(寛永12年)、海外渡航を禁止した鎖国政策により、我が国の海図の発達は完全に停止し、海岸線、航路、里程、暗礁、砂州などが記入されているだけで、水深が全く記入されていない海路図(例:海瀕舟行図)と呼ばれるものしか存在しませんでした。
江戸末期になると、鎖国中の我が国との通商を求めて、ロシアをはじめイギリス、アメリカなどの艦船(かんせん)が、日本周辺海域に出没してきましたが、日本近海は暗礁(あんしょう)や島などが多く、難破(なんぱ)する船が続出しました。そのため、各国の艦船が自身で測量をせざるをえない状況になり、江戸幕府の許可を得て各国艦船による海の測量が開始されました。
徳川幕府は諸外国による測量を目の当たりにして、沿岸測量の重要性を認識し始め、長崎に海軍伝習所を設置し、幕臣と各藩推薦者に航海術、測量術、砲術、造船学などを学ばせました。
この伝習所では、勝海舟、榎本武揚、川村純義、五代友厚、佐野常民、初代水路局長となる柳楢悦など明治維新後に活躍する多くの人物が学びました。
長崎海軍伝習所の教育が生かされ、オランダ式の正式な測量術が導入されたことにより、伊勢・志摩・尾張沿岸の測量が1862年(文久2年)6月から行われ、我が国初の航海用沿岸海図となる「伊勢志摩尾張付紀伊三河」が作成されました。この測量には津藩から柳楢悦が参加しました。
海上保安庁海洋情報部に現存する「藩海實測稿」には、村田佐十郎、柳楢悦他測量に関わった人物の名前をはじめに、津の海岸部(中川原から贄崎)の実測成果が記載されています。
1870年(明治3年)備讚瀬戸のほぼ全域にあたる塩飽諸島の沿岸測量が実施されました。 成果は日英合同の測量にもかかわらず、柳御用掛を始めとする日本水路士官達の独自の手で「鹽飽諸島實測原圖」として1871年(明治4年)1月に完成しました。 我が国初の水路測量原図として大変貴重なものでしたが度重なる火災により焼失してしまいました。この図を作成するための基礎資料となった観測野帳が海上保安庁海洋情報部に現存し、これが唯一、当時の測量作業の片鱗を伝える貴重な資料といえます。